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立春は暦の上で春を迎える日です。
2月はまだまだ寒さが厳しい季節ですが、自然も心も少しづつ春に向かっています。
そこで今月は桜にまつわる演目を選びました。
熊野/湯谷(ゆや)
流儀
5流にあり(喜多流は「湯谷」)
分類
鬘物、三番目物
作者 不明
題材
平家物語十巻「海道下」
季節 春 (3月)
場面
京都の平宗盛の館 花見車の中 清水での花見
登場人物
シテ 熊野
ツレ 朝顔
ワキ 平宗盛
ワキツレ 従者
作り物 脇正面に車
あらすじ
平宗盛は熊野を都に住まわせて寵愛ちょうあいしています。京の都は今まさに春真っ盛り、宗盛は熊野を花見に連れて行こうという心積もりです。
遠江の国の池田の宿の長である熊野は、故郷に病に臥す年老いた母がおり、その母を見舞うために帰郷を願い出ていますが、宗盛は聞き入れてくれません。
そうした折、なかなか帰郷しない熊野を迎えに、侍女の朝顔が母からの手紙を携たずさえて都へやって来ます。熊野は母の手紙を宗盛に見せて、帰郷の許しを得ようと宗盛のもとへ向かいます。手紙には、命のあるうちにもう一度娘に会いたいという老母の心情が切々せつせつと綴つづられていました。
しかし、宗盛は帰郷を許さず、母を思い悲しみに沈む熊野を連れ、清水寺へ牛車ぎっしゃで花見に向かいます。牛車から見える都は、多くの人々でにぎわい、春の華やかさに満ちています。
しかし熊野は行き過ぎる寺々を眺めるたびに、母を思い出し、その身の上を案じます。やがて一行は清水寺に到着し、熊野はすぐに御堂で母のことを祈ります。宗盛は酒宴に熊野を呼び出し、宴が始まります。
宴席で舞を所望しょもうされた熊野が、満開の桜の下で舞っていると、村雨が花を散らします。散る花に母の命をなぞらえて和歌を詠む熊野。その和歌に心打たれた宗盛は帰郷を許し、熊野は母のもとへと急ぎ帰ります。
みどころ
この能は、平家物語の巻十に語られた、平宗盛と愛妾熊野のエピソードに肉付けした現在能です。「松風」と並び昔から人々に親しまれ、「熊野松風は米の飯」と言われるほど、飽きのこない面白さが称えられてきました。
話の内容は、平宗盛という権力者に翻弄される美女の姿を描いていますが、この能の最大の魅力は、明るい春の情景と熊野の暗く沈む心象風景という光と影を際立たせて、物語に深みを与えているところでしょう。清水での花見の道すがら、車窓からの風景を美しい詞章の連なる謡で描写し、その情景に熊野の心の揺れを重ねるように、謡、舞が織り込まれ、秀逸です。
熊野の重要な和歌をご紹介します。
盛りの花を散らすとは、心無い村雨
春雨の降るは涙か桜花散るを惜しまぬ人し無けれ→春雨とは、桜の散るのを惜しむ人々の涙なのだろうか(古今集)
いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東(あづま)の花や散るらん→どうしたらよいのでしょう、都の春(宗盛)も見捨てがたいけれど、こうしている間にも、馴れ親しんだ東の花(母)が散ってしまうかもしれません
意味
村雨(むらさめ)→強く降ってすぐ止む雨。「群れた雨」の意味。
春雨(はるさめ・しゅんう)→春、しとしとと静かに降る雨。
清水での花見の道すがら、車窓からの風景を美しい詞章をご紹介します。
●地
春前に雨あつて花の開くる事早し→「春先に雨が降ると開花が早くなる
秋後に霜なうして落葉遅し→晩秋に霜が降りなければ落葉は遅れる
山外に山有つて山尽きず→山の向こうに山があって山は尽きない
路中に路多うして道きはまりなし→道の途中に道が沢山あり、道の尽きる事はない
●シテ
山青く山白くして雲来去す→山は青く、また白くなって、雲が去来する
●地
人楽み人愁ふ、これみな世上の有様なり→人は楽しみ人は憂う、これはみな地上の有様です
誰か言ひし春の色、げに長閑(のどか)なる東山→誰が言ったか、春の色、本当に長閑な東山
四条五条の橋の上、四条五条の橋の上→四条や五条の橋の上で
老若男女貴賎都鄙→ 老若男女も、貴戸も、賎しい人も、都会人も、田舎人も
色めく花衣袖を連ねて行末の→色めく花衣の袖を連ねて行き交い
雲かと見えて八重一重→行く末に雲のように見える八重桜、一重桜が咲き、
さく九重の花ざかり→九重の桜も花盛り
名に負ふ春のけしきかな名におふ春のけしきかな→名高い春の景色です
平家物語とは
作者は不詳。
鎌倉時代前半(13世紀前半ごろ)に京都の貴族社会の中で成立し仏教的な無常観を背景に平家一門の栄枯盛衰を描いた軍記物語(中世に成立した合戦を中心に描いた文学)文学作品です。平清盛(たいらのきよもり)ら平家一門が天皇家と強く結び付いて栄華を極め、やがて源氏との戦いに敗れて滅んでいくまでのありさまを、主に平家方の立場に力点をおいて描いた物語です。
「琵琶法師」(びわほうし:琵琶を演奏する盲目の僧侶)による「語り物」(かたりもの:節を付けて歌う弾き語り)として人々に伝えられ、貴族から庶民まで幅広い層に親しまれました。
平家物語には数々の異本があり、鎌倉時代には源氏側の視点が織り込まれた「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき)、室町時代には「源義経」(みなもとのよしつね)を主軸とした「義経記」(ぎけいき)が書かれました。
江戸時代になると、それらを含めた平家物語の内容が数々の芸能で取り上げられ、
浄瑠璃(じょうるり:三味線の伴奏に合わせて物語を聞かせる芸能)・歌舞伎の作者「近松門左衛門」(ちかまつもんざえもん)は、平家物語の一部から新たな筋書きを組み立てた「平家女護島」(へいけにょごのしま)を発表。
また、人形浄瑠璃(人形を使った浄瑠璃)・歌舞伎の「義経千本桜」(よしつねせんぼんざくら)では、源義経を軸に平家の生き残りの人々が描かれました。これらは高い人気を誇り、現代でもたびたび上演されています。
『平家物語』巻第十より「海道下(かいだうくだり)」
捕虜となった平重衡は梶原景時に護衛され、鎌倉で源頼朝に面会すべく東海道を下る。
あらすじ
生け捕りになった平重衡は、梶原景時に護衛されて、源頼朝と対面すべく、京都から鎌倉へ東海道を下っていく。四宮河原を過ぎ、古歌に詠まれた名所などに思いをはせながら東海道を下る。駿河国池田の宿では、宿の長者の娘・熊野(ゆや)との歌のやり取りがあった。
娘の優雅さに感心する重衡に、景時は彼女の逸話を語る。
大臣殿(宗盛)がこの国の守として赴任した時、彼女を見初めて京へ召し出した。
ある時彼女の母親が病気になったが大臣殿は故郷に帰してくれないので、
いかにせむ みやこの春もおしけれど なれしあづまの花や散るらむ
という歌を詠み、帰省を許されたと。また東海道を下る道すがら、甲斐の白根を見て歌を詠んだりなどしながら日を重ね、鎌倉へ到着するのだった。
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